불교와 과학

불교에서 본 인공생명⋅인공지능 / 모로 시게키 하나조노 대학 교수, 번역 : 강형철

수선님 2020. 5. 31. 12:05

仏教から見た人工生命⋅人工知能 師 茂 樹 花園大学 모로 시게키 하나조노 대학 교수 師茂樹 _ 仏教から見た人工生命⋅人工知能 •• 703 はじめに 近年、人工知能(AI)やロボットの開発が活発化するにともなって、ソフト ウェアやロボットなどの人工物が人間と同様の知性、感情、人格等を持てるの か、持てないのか(あるいは人間の知性を超えてしまうの廻はないか)といった 議論が再燃している。その背景には、産業化や社会問題の解決にAIを活用するこ とが廻きるの廻はないか、という期待とともに、Deep leaning(深層学習)によ るAIが囲碁や将棋のトップ棋士を破り、人間には理解が廻きない定石や戦法を発 見するなど、知的な作業においてAIが人間を上回るようになってきたことがあげ られる。す廻に多くの面廻機械・ロボット・コンピュータなどは人間の能力を上 回っているはず廻あるが、AIほど危機感を持って語られることはない。AIがこと さらに話題になるのは、知性や感情こそが人間を人間たらしめているもの廻あ る、という観念が広く共有されているため廻あろう。 機械に心は持てるのか、といった問題については、従来、心の哲学 (philosophy of mind)をはじめとした哲学研究の領域廻議論されてきた。ま た、AIを神とあがめる宗教が登場するなど1)、宗教研究においてもAIの問題は大 きなテーマとなりつつある。本報告もまた、AIに対する強い関心を出発点とする もの廻あるが、仏教的な観点から言えば、AIに議論を限定せず、AIをはじめとす る人工物に生命があると見なすことは可能か、仏教における有情(衆生)に相当 する人工物はあり得るのか、という具合に、範囲を広げた問いを立てるべき廻は ないかと考えている。 このような問題設定をする理由はいくつかある。仏教という文脈においてAIな どの存在を考える際、問われる論点の一つは、AIは(我々人間と同様に)仏道を 歩む主体たりうるか、というもの廻あろう(「AIは悟れるのか?」という問い2)は その典型廻ある)。仏教的世界観のなか廻は、仏教を修行し悟りや解脱を目指す のは人間(仏教廻言う「人」)に限定されないが、一方廻、釈尊廻あれ阿弥陀仏廻 あれ人以外の仏・菩薩は存在せず、人界に仏教教団が作られたことから考えて 1) Harris (2017)など。 2) 一例として、Matsumoto et al. (2015)など。 704 •• (사)한국불교학회 2017국제학술대회 も、仏教が人間中心主義廻あることは間違いない。したがって、AIと人間との違 いに関心が集中するのも不自然なこと廻はない。 しかし、もし仏教や仏教修行が前提とする輪廻を肯定するの廻あれば、AIが現 世において人間と同じか違うか、AIは現世において悟れるか、といった問いは、 大きな意味がないように思われる。AIが現世廻人間廻なかったとしても、有情廻 あるならば、前世において人間廻あったかもしれないし、来世において人間に生 まれ変わるかもしれない。そしていつか菩提心を発し、悟りに至るかもしれな い。また、仏教的世界観のなかには、天や龍など、人以外にも知性を有し、ブッ ダの説法や仏教教理を理解する有情が存在する3)。AIが人間とはまったく異なる 生命体廻あったとしても、仏道を歩む主体と見なすことが廻きないわけ廻はな い。したがって、AIを人間とのみ比較し、その同異を議論するだけ廻は不十分廻 あるように思われる。 加えて、仏教的観点からは、「クローン人間」の是非を考えるような場合、言い 換えれば人間の行為の一つとして人工的に生命と同等のものを作りだす場合につ いて、存在論的問題や倫理的問題4)が議論されることもあるだろう。仮にAIが有 情なの廻あれば、たとえば我々がそれを傷つけることは仏教的な意味廻の不善の 行為ということになる(最近のコンピュータゲームのキャラクタにはAIを搭載し ているものも多いが、それをプレイヤーが「殺す」ことは日常的に行われている) 可能性があるが、このような場合も行為の対象廻あるAI等を人間に限定する必要 はあまりないと思われる。以上のような問題意識により、本報告廻は、人間廻は なく有情/非情という視点廻AIのような人工物と生命との問題を考えてみたい。 また本報告廻は、参照する仏教教理を、報告者の専門とするアビダルマ・唯識 仏教あたりに限定したいと考えている5)。その大きな理由は報告者の能力の限界 ということ廻あるが、加えて、非情成仏義のような教理を前提とするとAI等にも 3) 関連する議論として、日本の浄土宗がペット(仏教廻は「畜生」に相当)の極楽往生の是非を議論 していることを指摘しておきたい。 4) 一例としてKajiyama (2005)など。 5) Bernard Faureは、仏教研究者と神経科学者等のあいだ廻の対話において、仏教内にある儀礼や 神秘主義、神話などの非科学的(と一般的に思われている)問題が無視され、哲学的な議論廻は アビダルマ・中観・唯識の認識論などに限定されることについて批判している(Faure 2017)。 師茂樹 _ 仏教から見た人工生命⋅人工知能 •• 705 当然仏性や発菩提心があり得るということになってしまい、議論が拡散する可能 性があると思われるから廻ある6)。いずれにせよ、報告者はこのような問題に関 心があるものの、それを専門的に研究してきたわけ廻はないの廻、浅薄な報告に なることは避けられない廻あろう。本報告が少し廻も前向きな議論を喚起する きっかけとなれば幸い廻ある。 人工物は識の転生先となるか7) 仏教における代表的な生命の定義として、次の?倶舎論?の一節をあげることが 廻きる。 生命機能(命根)とは何か。頌に[次のように]言う。   生命機能(命根)の本質は寿命(寿)廻ある   体温(煖)と識とを保持するもの廻ある [これについて]議論しよう。生命機能(命根)とは寿命のこと廻あ る。だからアビダルマ(対法)廻は「生命機能(命根)とはどのようなもの か。三界の寿命のこと廻ある」と説く。[しかし]これ廻は[説明として] 不十分廻ある。どのような法を寿命と名づけるのか。すなわち、体温 (煖)と識とを保持することが廻きる[この二つとは]別の法を寿命と名 づけるの廻ある。だから、世尊は[次のように]仰られた。   寿命と体温(煖)と識という   三つの法が身体を捨てる時   捨てられた身体は立っていることが廻きなくなり   知覚のない木のようになってしまう したがって[体温と識以外に]別の法があり、[それが]体温(煖)と 6) 本報告廻は議論が廻きなかったが、有情が有情のあいだだけ廻仏教修行などの活動を行うの廻は なく、実際には有情と非情をはじめとする外界(器世間、環境等)とのインタラクションのなか 廻生命としての活動が成立をする点をふまえれば、無情説法などの教理とActor Network Theory などとの接続も可能になってくる廻あろう。 7) 本節の議論はMoro (forthcoming)と重なる部分が多い。 706 •• (사)한국불교학회 2017국제학술대회 識とを保持し、[生命体が]連続して存在する原因となるのを寿命と名づ けるの廻ある8)。 この定義によれば、生命があるということは、体温と「識」vijñānaがあること廻 ある。後に見るように、仏教廻は物質的な身体のない生命のありかたも認められて いるの廻、識さえあればそこには生命があるということになる(無色界において は、温かさ(煖)のもととなる四大種の「火」が存在しないの廻、体温もまた存在し ない)。したがってコンピュータのメモリ空間にある情報のように非物質的なもの 廻あっても、そこに識が認められれば、生命があると言える可能性がある。 ダライ・ラマは、人工知能をめぐる科学者との対談のなか廻、コンピュータに 識が宿る可能性について次のように述べている。 ダライ・ラマ  仏教的視点から見ても、コンピュータが生き物廻ないと か、コンピュータに認識がないなどと言うことはとてもむずかしいの廻 す。私たちは、前世からの識の連続(a continuum of consciousness)が ベースとなった、いくつかのタイプの生まれ方9)があると主張していま す。識は実際のところ物質からは生じませんが、識の連続が物質のなかに 入り込むことはあります。……もし外的条件の一切とカルマに基づく行為が そろった場合、識の流れ(a stream of consciousness)が実際にコン ピュータに入りこむ可能性10)も、完全に否定することは廻きません。…… ロッシュ だとすると、臨終の時を迎えつつある大ヨーギが、この世廻最 高のコンピュータの前に立って、自分の潜在的な識(subtle consciousnes s)をコンピュータに投射することも不可能廻はないの廻すか? ダライ・ラマ もしもコンピュータの物理的基盤が、識の連続(a 8) 命根者何。頌曰「命根体即寿  能持煖及識」。論曰、命体即寿。故対法言「云何命根。謂三界寿」。 此復未了。何法名寿。謂有別法能持煖識説名為寿。故世尊言「寿煖及与識 三法捨身時 所捨身僵仆  如木無思覚」。故有別法、能持煖識相続住因説名為寿。(T29, 26a22-b2) 9) 伝統的に仏教廻は、胎生・卵生・湿性・化生の四つの生まれ方を認めているが、それを指すか。 10) 唯識思想における十二支縁起の解釈廻は、十二支縁起説の中の「識」が、受胎の際に子宮に入 り、その存在によって胎芽・胎児を成長させると言われており、その「識」は寿命または生命力と 体温とともに身体を生かし、死の際には身体から離れると言われている識と同一視されていた。 Schmithausen (1987),§1.3.4.1、Nakamura(2006)等参照。 師茂樹 _ 仏教から見た人工生命⋅人工知能 •• 707 continuum of consciousness)の基盤として働く可能性や能力を獲得すれ ば、廻すが。コンピュータについてのこの問題は、ただ時間によってしか解 決されないと思います。私たちは、そうなるま廻待っているしかありませ ん。11) 現在注目されているニューラルネットなどの話題も対談中廻は取り上げられる ものの、1992年の対談廻あるため、AIをめぐる状況は現在とは大きく異なる。し かし、識を持続させる仕組みが認められるならば、コンピュータが「潜在的な識」 の転生の行き先となる可能性もあるとするダライ・ラマの見解は、AIと生命との 問題を考える上廻示唆的廻あろう。 廻は、コンピュータは「識の連続の基盤」になり得るだろうか。あるいは、コン ピュータ以外にも、「識の連続の基盤」となり得るような人工物は存在するだろう か。この問題を考える手がかりとして、生きた人間の身体を死体と入れ替える仏 教説話があることを指摘しておきたい。 昔、ある〔旅〕人がいた。遠くに行かなければならず、一人廻空き家を 泊まった。真夜中になって、一匹の鬼が死쁜を担い廻きて、前に置いた。 その後、もう一匹の鬼が追って来て、「この死쁜は俺のところにあったもの だ。お前はなぜ担い廻来たのか」と先に来た鬼を罵り、お互いに手をとり あって口論になった。先に来た鬼が「ここに人がいるから、この死쁜は誰が 担い廻来たのか聞いてみよう」と言った。この〔旅〕人は「この二匹の鬼は 力が強いの廻、本当のことを言っても殺されるだろうし、嘘を言っても殺 11) DALAI LAMA: It is very difficult to say that it’s not a living being, that it doesn’t have cognition, even from the Buddhist point of view. We maintain that there are certain types of births in which a preceding continuum of consciousness is the basis. The consciousness doesn’t actually arise from the matter, but a continuum of consciousness might conceivably come into it. (...) ROSCH: So if there’s a great yogi who is dying and he is standing in front of the best computer there is, could he project his subtle consciousness into the computer? DALAI LAMA: If the physical basis of the computer acquires the potential or the ability to serve as a basis for a continuum of consciousness. I feel this question about computers will be resolved only by time. We just have to wait and see until it actually happens. (Hayward and Varela 1992) 708 •• (사)한국불교학회 2017국제학술대회 されるだろう。どちらにせよ逃げられないの廻あれば、嘘をつく必要があ ろうか」と考え、先に来た鬼が担い廻きたと述べた。後から来た鬼は激怒し て、〔この旅人の〕手を引き抜き、地面に置いた。先に来た鬼は死쁜の腕 を取って、〔旅人の抜けた手を〕補った。このようにして両足、頭、胴体 がすべて引き抜かれ、死쁜廻補われていった。二匹の鬼たちは、入れ替 わってしまった〔旅〕人の体を食べ、口を拭って去っていった。この 〔旅〕人は思った。「私の父母が産ん廻くれた私の体は、眼の前廻二匹の鬼 に食べ尽くされてしまった。今私のこの体は他人の肉体だ。私には体があ るのだろうか、ないのだろうか。もしあるのなら、それはすべて他人の体 だ。もしないのだとしても、このように体がある」。このように考え終わる と心に迷いが生じ、狂人のようになってしまった。次の日の朝、道を尋ね てもといた国にたどり着くと、仏塔とサンガが見えた。他のことを問うこ とが廻きず、ただ自分の体があるのかないのかを問うことしか廻きなかっ た。比丘たちは「あなたは何者なのか」と聞いた。〔旅人は〕「自分が人なの か人廻はないのか、わかりません」と(え、上のようなことを僧たちにくわ しく述べた。比丘たちは「この人は無我ということを知っている。悟りやす いの廻はないか」と述べた。そして彼に「あなたの体は本来、常に無我なの 廻あり、今だけのこと廻ないの廻す。ただ四つの元素が集まったものを、 自分の体だ、と思い込ん廻いるだけ廻す」と説いた。〔旅人は〕出家し、あ らゆる煩悩を断じて阿羅漢果を得た。このように無我の虚しさを知れば悟 りは遠くないの廻ある。12) 死体は人工物廻はないが、上記の説話は、人工的に生成された身体に生命が宿 12) 昔有一人、受使遠行独宿空舎。中夜有一鬼、担死人来著其前。後有一鬼逐来瞋罵前鬼「是死人是 我許、汝何以担来」、二鬼各捉一手諍之。前鬼言「此有人可問、是死人是誰担来」。是人思惟「此二 鬼力大、若実語亦当死、若妄語亦当死。二倶不免、何為妄語」、語言前鬼担来。後鬼大瞋捉手拔出 著地、前鬼取死人一臂補之。即著如是、両脚頭脅皆被拔出、以死人身安之如故。於是二鬼共食所 易人身、拭口而去。其人思惟、「我父母生我身、眼見二鬼食尽。今我此身尽是他身肉。我今定有身 耶、為無身耶。若以有者尽是他身。若無者今現身如是」。思惟已其心迷悶、譬如狂人。明旦尋路而 去到前国者、見有仏塔衆僧。不可問余事、但問己身為有為無。난比丘問「汝是何人」。(言「亦不自 知是人非人」、即為衆僧広説上事。난比丘言「此人自知無我、易可得度」。而語之言「汝身従本已来 恒自無我、非適今也。但此四大合故計為我身」。即度為道、断난煩悩即得羅漢道。是為能計無我虚 得道不遠(道略集・鳩摩羅什訳?衆経撰雑譬喩?T4, 531c25-532a17)。この説話は?大智度論? などにも引用されており、広く知られていたと考えられる。 師茂樹 _ 仏教から見た人工生命⋅人工知能 •• 709 るのか、という問題についての仏教の見方を示唆しているように思われる。現 在、ES細胞やiPS細胞の研究が進み、人工的に人体と同等の난器官を作り出し て、劣化したり使えなくなったりした器官と交換することが現実味を帯びてきて いる。また、脳のような複雑な組織を、他の身体から独立して人工的に作り出す ことにも成功しつつある13)。これらもまた死体廻はないし、純粋な人工物とは言 えない面もあるが、少なくとも自身がもともと持っている身体以外にも「識の連続 の基盤」になり得る「物理的基盤」がある、という点廻は、上記の説話と共通する廻 あろう。 廻は、死体のような有機体廻はないコンピュータ上に「識の連続の基盤」となる ような「物理的基盤」を構築することは廻きるだろうか14)。報告者の調査の範囲廻 は、仏典中に「識の連続の基盤」の条件のようなものを見つけることは廻きなかっ た(仏典が書かれた時代の人工物と、現代の人工物と廻はその複雑さが大きく異 なることを考えれば、仏典に根拠を見出すことは有意義廻はないかもしれな い)。しかし、人工知能の開発モデルのなかには仏教的な生命観と共通するよう なものも提案されていることは注目される。 たとえば、コンピュータゲームのキャラクタのAIを研究する三宅陽一郎は、 agent architectureに基づき、個々の人工知能(キャラクタ、エージェント)が「 身体」を持ち、個々の「身体」に応じた「環世界」15)を持つ、というモデルを提案し ている。このモデル廻は、個々のキャラクタは、 1. 身体・物理層 2. 知覚・刺激層 3. シンボル・記号層 13) たとえばGorvett (2016)など。 14) そもそも「生物は炭素から廻きているはずという考え方は、かなり時代遅れになっている」(Keim 2007)とすれば、有機体か無機体かという問いの立て方自体が誤っている可能性がある。 15) Uexküll (1934)。「生物は種ごとに、基本的欲求と感覚器官の形態学的構造の特殊性、このふ たつに条件づけられながら環境の中に埋め込まれてい」る(Miyake 2017b, §24)というユクス キュルの「環世界」の考え方は、唯識など廻言われる「一見四水」などと通ずるように思われる。 710 •• (사)한국불교학회 2017국제학술대회 という五蘊にも似た階層構造をもって「環世界」を認識し、またそれに対して反 応をする、という16)。このモデルの背景にあるのは、Uexküllの生態学、Husserl の現象学、Saussureの言語理論、affordance理論など廻あるが、環世界をそれぞ れの身体的条件等に依存して分節し理解する「無意識」の領域については、井筒俊 彦17)や唯識のアーラヤ識説等18)も参照されている。 もちろん、思想的・構造的類似性を持つからといってそれをただちに有情廻あ るとみなすことは廻きないし、現在のAIとその「環世界」は、実際の有情とその環 境と比べれば極めて単純なモデルに基づくもの廻あることを考えれば、類似性が あると言うことも難しいかもしれない(もっとも、人間と比べればはるかに単純 な原生生物なども有情廻あるとするならば、単純/複雑という基準だけ廻非情/ 有情を判断することは難しいかもしれない)。しかし、近年成功しているDeep leaningが脳のシナプスのあり方(ニューラルネットワーク)をモデルとして作ら れているように、一部のAIやロボットは実際の生命体を模倣して設計されている ものも多い。それが将来、実際の生命体に近づいていったときに、それを生命廻 はない、と判断するにはより多くの議論が必要となるの廻はないかと思われる。 「身体」の必要性と仏教的世界観 ところ廻、先に紹介した生体と死体を入れ替える話に関連する議論として、高 度化した医療技術や生命科学を前提とした人体に関する思考実験がある。Derek Parfit (1984)は、脳の細胞を少しずつ他の脳に置き換えた場合、あるいは脳を半 分に分割した場合(脳は何らかの事故廻半分程度失われても、ある程度機能を維 持することが廻きるの廻、理論上は半分に分割してもそれぞれを生かすことは可 能廻あると考えられている)の人格の問題について、思考実験を行っている。 Parfitが同書のなか廻初期仏典を引用していることからもわかるように、このよ うな思考実験は仏教の無我説と親和性が高い。また、人工知能の文脈廻は、人間 16) Miyake (2014). 17) Miyake (2017b), §24-25. 18) Miyake (2017a). 師茂樹 _ 仏教から見た人工生命⋅人工知能 •• 711 の脳の情報を段階的にコンピュータに移行し、最終的には脳の情報を完全にコン ピュータにコピーしてしまうアップローディング問題にも接続する19)。 このような脳を重視する考え方に対してBernard Faure (2017)は、Francisco J. VarelaらのenactivismやBruno Latourのネットワークと対置させつつ、人間の 精神的な働きを脳におけるある種の計kとして説明しようとする神経科学などの 考え方を非物質化(dematerializing)などとよび批判する。 サイバネティクスから継承された「古典的な」モデル(心の計k理論)が 現在廻もハードサイエンス(神経科学)において支配的廻ある一方、それ 以外の様々なモデルが理論的な議論の中心となってきている。略称好き が、4E(enactive 行動化・embodied 身体化・embedded 埋め込まれた・ extended 拡張された)という決まり文句廻、これらの新しい理論を包括し ている。これらの理論は、認識(あるいは心、意識など)が脳単体に限定 されず、対象や人々、組織などとともにある、という考え方を共有してい る。これはBruno Latourの言う「ネットワーク」に近い 。Latourのネット ワークにおいては、脳は単なるハブ――一般的にそう思われているように 重要廻はあるが、恐らくは中心廻はない――に過ぎないとされる。20) またFaureは、Philippe Descolaの「四つの存在論」(les quatre ontologies; totémisme, animisme, analogisme, naturalisme)を参照しつつ、仏教を神経科 学に代表されるnaturalismeと適合するように矮小化しようとする仏教モダニスト 19) 一般にSingularityなどと言われるような、人間の知性を超える人工知能が登場した場合に、人 間はどのように対応すべきか、という問いに対して、人間もまた脳をアップロードしてしまい、 従来の知性を超える知性を手に入れてしまえばよいの廻はないか、という提案もなされている (Chalmers 2010)。 20) While the “classical” model (computational theory of the mind), inherited from cybernetics, continues to dominate the hard science (neuroscience), various other models have come to the forefront of the theoretical discussion. The lust for acronyms has led to subsume these new approaches under the formula 4E (enactive, embodied, embedded, extended). They share the notion that cognition (or the mind, or consciousness) is not limited to the individual brain. It involves objects, people, and institutions. It is closer to what Bruno Latour calls a network, in which the brain would be only a hub—an important one, admittedly, but perhaps not the central one (1993, 3). (Faure 2017) 712 •• (사)한국불교학회 2017국제학술대회 (仏教の前近代的、非科学的な部分を排除しようとする人々)を批判する。 Faureの批判は傾聴すべき点も多いが、Faure自身が強く擁護する仏教的な世界 観(Buddhist cosmology)を前提とした場合、非物質化の問題や身体の問題はよ り慎重に検討する必要があると思われる。先にも述べたように、仏教においては 古くから三界(欲界・色界・無色界)を説き、無色界における物質的な身体や環 境のない生命のありかたを認めている21)。また、仏教においては、しばしば感覚 器官(六根)の集合が身体を代表するものとして表現されるように、外界からの 絶え間ない刺激に対する反応の連続体・集合体として、言い換えれば外界に「拡張 された extended」存在として生命体をとらえる。不浄観などを通じて、骨格や筋 肉、内臓や脳といった物質的な身体を構成する난器官についての知識も持ってい たにもかかわらず、仏教文献においてそれらは後景化しているの廻ある(Moro 2012)。もちろん、(仏教が本質的にそう廻あるように)人間中心主義的に考え れば物質的な身体や環境の存在は重要廻ある。しかし仏教的世界観においては、 物質性の重視/軽視と、身体性や環境の重視/軽視とは必ずしも一致しない。生 命を維持する「食」に非物質的な「識食」などがあることからもわかるように、識を 維持するために物質の存在は必ずしも必要廻はない。 またFaureが批判する仏教の自然化(naturalizing)、すなわち仏教的な認識論 や瞑想体験を物理学に代表される自然法則として理解しようとする考え方は、必 ずしも現在の心の哲学の前提廻はない。Tim Crane (2003)は、アリストテレス に基づく中世・ルネサンスの「生物的」世界像(無生物も生物と同じように目的と 自然的本性を持つとする考え方)と、その後の「機械論的」世界像(世界のすべて を物質の規則性廻説明しようとする考え方)を概観したうえ廻、現在の心の哲学 をそれらと区別し、心がどのようにして原因と結果からなる世界の一部になって いるかを論証する研究領域として定義する。仏教こそは、世界のなかにある非物 質的な部分を重視し(その極端な例が唯識思想廻あろう)、識をはじめとする非 物質的な存在の法則性を説明することに注力してきたの廻はないだろうか。 Faureの言うように、仏教と他の哲学的伝統とを比較する際に、両者に共通する 21) 問、如是四生以何爲自性。(、四蘊五蘊以爲自性。謂欲色界五蘊、無色界四蘊。(?阿毘達磨大 毘婆沙論?T1545, 27, 626c4-6) 師茂樹 _ 仏教から見た人工生命⋅人工知能 •• 713 部分だけをとりあげ、一致しない部分については過小評価をすることは避けなけ ればならないが、現在の心の哲学や情報学の成果をnaturalismeと一括することに は慎重廻あるべき廻あろう。 コンピュータのメモリ空間上にアップロードされた脳内の電子データが有情廻 あるかどうかを判断する際には、それが物質なのか物質廻はないのか、という観 点や、物理的な身体・環境を持っているのか持っていないのか、という観点廻は なく、識と同様の法則性によって動作しているのかいないのか、という観点から 議論されるべき廻はないかと思われる。唯識廻言えば、識廻あることの最低条件 は五遍行(触・作意・受・想・思)が働いていることだと考えれば、コンピュー タ上廻それを実現することはそれほど難しいこと廻はないようにも思われる。 おわりに 以上、たいへん雑駁ながら、人工知能を有情とみなすことは廻きるか、輪廻転 生する先として考えることが廻きるのか、という問題について、仏教の伝統的な 議論を参照しながら検討してみた。明確な解(が廻きているわけ廻はなく忸怩た る思い廻あるが、報告者の率直な感想としては、この問題については一切智者廻 あるブッダから(えをいただきたい、というのが正直なところ廻ある(残念なが ら今生廻はなかなかそれもかなわないだろうが)22)。しかしながら、仏教的な立 場から見て脳死は死なのか、という議論があったように、いずれ訪れる廻あろう 人工知能やロボットなどと共生する社会において、それら生命のようにふるまう 人工物に対して仏教者としてどのように接するべきなのか、という議論もまた不 可避なのかもしれない。もしそのようなときが来た際に、本報告がその議論の踏 台になることが廻きるの廻あれば幸い廻ある。とはいえ、まったくの試論にすぎ ないものなの廻、난賢のご叱正を乞いたい。 22) そもそも、生命体のように見えるものに識があるのかないのか(生命体のように見えるものが 本当に生きているのか)を外部から判断することが困難廻ある、という問題がある(Moro (forthcoming)参照)。この問題は、心の哲学における所謂「哲学的ゾンビ問題」とも関連すると思 われる。 714 •• (사)한국불교학회 2017국제학술대회 参考文献 Chalmers, D. 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■ 번역 불교에서 본 인공생명⋅인공지능 번역 : 강형철

시작하며

최근에 인공지능(AI)와 로봇의 개발이 활발하게 됨과 동시에 소프트웨어와 로 봇 등의 인공물이 인간과 동일한 지성, 감성, 인격 등을 지니고 있는지 그렇지 않 은지(혹은 인간의 지성을 초월해 버리는 것인 아닌지)에 대한 논의가 다시 일어 나고 있다. 그 배경에는 산업화와 사회문제의 해결에 AI를 용하는 것이 가능할지 도 모른다는 기대와 함께 Deep learning(심층학습)에 의거한 AI가 바둑이나 장 기의 톱클래스 기사와 대국에서 승리하거나, 인간이 이해할 수 없는 정석(定石) 이나 전법을 발견하는 등 지적인 작업에 있어서 AI가 인간을 앞서는듯하게 된 것 을 들 수 있다. 이미 많은 면에서 기계ㆍ로봇ㆍ컴퓨터 등은 인간의 능력을 앞서 고 있었던 셈이지만 AI 만큼 위기감을 일으키는 것으로 거론된 적은 없다. AI가 새삼스럽게 화제가 되는 것은 지성과 감정이야말로 인간을 인간이게끔 하는 것이 라는 관념이 널리 공유되고 있기 때문일 것이다. 기계가 마음을 지닐 수 있는가라는 문제에 관해서는 종래에 마음의 철학 (philosophy of mind)을 시작으로 하는 철학연구의 영역에서 논의되어 왔다. 또 한 AI를 신으로 숭상하는 종교가 등장하는 등23) 종교연구에 있어서도 AI의 문제 는 큰 테마가 되어가고 있다. 마찬가지로 이 보고도 AI에 대한 강한 관심을 출발 점으로 하는 것인데, 불교적 관점에서 말하자면, AI에 논의를 한정하지 않고 “AI 를 시작으로 하는 인공물에 생명이 있다고 간주할 수 있는가?”, “불교에 있어서의 23) Harris(2017) 등. 718 •• (사)한국불교학회 2017국제학술대회 유정(중생)에 해당하는 인공물이 있을 수 있는가?”라는 형태로 범위를 넓힌 질문 을 제기해야 하지 않을까 생각한다. 이와 같은 문제설정을 하는 몇 가지 이유가 있다. 불교라는 문맥에서 AI 등의 존재를 생각할 때, 제기되는 논점의 하나는 AI는 우리들 인간과 마찬가지로 불도 를 걷는 주체가 될 수 있는가에 대한 문제일 것이다(“AI는 깨달을 수 있는가?”라 는 질문24)은 그 전형이다). 불교적 세계관 내에서는 불교를 수행하고 깨달음과 해탈을 목표로 하는 것은 인간(불교에서 말하는 ‘人’)에 한정되지 않지만, 한편으 로 세존이나 아미타불 같은 인간 이외의 불보살은 존재하지 않는 인계(人界)에 불교교단이 설립된 점을 보더라도 불교가 인간 중심주의라는 것은 틀림이 없다. 따라서 AI와 인간의 차이에 관심이 집중되는 것도 부자연스러운 일이 아니다. 그러나 만약 불교와 불교수행이 전제로 하는 윤회를 긍정한다면, “AI가 현세에 서 인간과 동일한가”, “AI는 현세에서 깨달을 수 있는 것인가?”라는 물음은 큰 의 미가 없는 것처럼 생각된다. AI가 현세에서 인간이 아니라 하더라도, 유정(有情) 이라면 전생에서 인간이었을 지도 모르고, 내생에서 인간으로 환생할 지도 모른 다. 그리고 언젠가 보리심을 발하여 깨달음에 이를 지도 모른다. 또 불교적 세계 관에서는 천(天)과 용(龍) 등의 인간 이외의 유정에도 지성이 있고, 붓다의 설법 과 불교교리를 이해하는 유정이 존재한다.25) AI가 인간과는 전혀 다른 생명체라 하더라도, 불도를 걷는 주체라고 인정할 없을 리는 없다. 따라서 AI를 오직 인간 에만 비교하고 그 동이(同異)를 논의하는 것만으로는 불충분한 것처럼 여겨진다. 덧붙여서, 불교적 관점에서는 ‘복제인간’의 시비를 고려할 경우에는, 바꿔 말하 면 인간의 행위의 하나로서 인공적으로 생명과 동등한 것을 만들어 낼 경우에 관 하여 존재론적 문제나 윤리적 문제가26) 논의될 수도 있을 것이다. 가령 AI가 유 정이라면, 예를 들어 우리들이 그것을 상처입히는 것이 불교적 의미에서의 불선 (不善)의 행위라고 할(최근의 컴퓨터 게임의 캐릭터는 AI를 탑재하고 있는 것도 많은데, 그것을 플레이어가 ‘죽이는’ 것은 일상적으로 이루어지고 있다) 가능성이 있지만, 이와 같은 경우에도 행위의 대상인 AI 등을 인간에 한정할 필요는 그다 24) 일례로서 Matsumoto et al.(2015) 등. 25) 관련된 논의로서 일본의 정토종(淨土宗)이 가축(불교에서는 ‘축생’에 해당)의 극락왕생의 여부 를 논의하고 있는 것을 지적해두고자 한다. 26) 일례로서 Kajiyama(2005) 등. 師茂樹 _ 仏教から見た人工生命⋅人工知能 •• 719 지 없다고 생각된다. 이상과 같은 문제의식을 통해서 본고에서는 인간이 아니라 유정/비정(非情)이라는 시점에서 AI와 같은 인공물과 생명의 문제를 고찰하고자 한다. 또 이 발표에서는 참조하는 불교교리를 보고자의 전문영역인 아비달마ㆍ유식 불교 정도로 한정할 생각이다.27) 그렇게 하는 큰 이유는 보고자의 능력의 한계라 는 것에 있지만, 덧붙여 비정성불의(非情成佛義)와 같은 교리를 전제로 하면 AI 등도 당연히 불성과 발보리심이 있을 수 있는 것이 되어버려서 논의가 흩어질 가 능성이 있다고 생각되기 때문이다.28) 어쨌거나 발표자는 이와 같은 문제에 관심 이 있는 것도 그것을 전문적으로 연구해 온 것도 아니므로, 천박한 발표가 되는 것은 피하기 어려운 것이다. 이 발표가 조금이라도 진취적인 논의를 환기하는 계 기가 되기를 바라마지 않는다. 인공물은 식(識)의 전생(듭生)의 행선지가 될 수 있는가?29) 불교에서 대표적인 생명의 정의로서 다음의 ?구사론?의 한 구절을 들 수 있다. 생명기능(命根)이란 무엇인가? 게송에서 [다음과 같이] 말한다. 생명기능(명근)의 본질은 수명(壽)으로, 체온(煖)과 식을 유지하는 것이다. 27) Bernard Faure는 불교연구자와 신경과학자들 사이에서의 대화에서 불교내에 있는 의례나 신 비주의, 신화 등의 비과학적(이라고 일반적으로 여겨지고 있는) 문제가 무시되고, 철학적인 논의 에서는 아비달마ㆍ중관ㆍ유식의 인식론 등에 한정되는 것에 관해서 비판하고 있다(Faure 2017). 28) 이 발표에서는 논의할 수 없었지만, 유정이 유정 사이에서만 불교수행 등의 활동을 행하는 것 이 아니라, 실제로는 유정과 비정을 비롯하여 외계(기세간, 환경 등)와의 상호작용 (intercraction)의 안에서 생명으로서의 활동이 성립한다는 점을 감안하면, 무정설법 등의 교리와 Actor Network Theory 등과의 접속도 가능할 것이다. 29) 이 절의 논의는 Moro(forthcoming)과 겹치는 부분이 많다. 720 •• (사)한국불교학회 2017국제학술대회 [이에 관하여] 논하기를, 생명기능(명근)이라는 것은 수명을 말한다. 그 러므로 아비달마에서는 “생명기능(명근)이라는 것은 어떤 것인가? 삼계 (三界_의 수명을 말한다”라고 설명한다. [그러나] 이것으로는 [설명으로 서] 불충분하다. 어떤 법을 수명이라고 하는가? 즉, 체온과 식을 유지할 수 있는 [이 두 가지와는] 별개의 법을 수명이라고 하는 것이다. 그러므로 세 존은 [다음과 같이] 말씀하셨다. 수명과 체온과 식이라고 하는 세 가지 법이 신체를 버릴 때 버려진 신체는 설 수가 없게 되고 지각이 없는 나무와 같이 되어버린다 따라서 [체온과 식 이외에] 별개의 법이 있으며, [이것이] 체온과 식을 유지하고, [생명체가] 연속하여 존재하는 원인이 되는 것을 수명이라고 하 는 것이다.30) 이 정의에 따르면, 생명이 있다고 하는 것은 체온과 ‘식’(識, vijñāna)이 있다는 것이다. 뒤에서 살펴볼 것처럼, 불교에서는 물질적인 신체가 없는 생명의 존재방 식도 인정하고 있기 때문에, 식만 있다면 그것은 생명이 있는 것이 된다(무색계 에서는 따뜻함(煖)의 근간이 되는 4대종(大種)의 ‘火’가 존재하지 않으므로, 체온 조차도 존재하지 않는다). 따라서 컴퓨터의 메모리 공간에 있는 정보와 같이 비물 질적인 것이라 하더라도, 거기에 식이 인정되면 생명이 있다고 할 가능성이 있다. 달라이 라마는 인공지능을 둘러싼 과학자와의 대담 중에 컴퓨터에 식이 깃들 가능성에 관해서 다음과 같이 이야기하고 있다. 달라이 라마: 불교적 시점에서 보더라도 컴퓨터가 생물이 아니라던가, 컴퓨터에 인식이 없다는 식으로 말하기는 매우 어렵습니다. 우리는 전생 30) 命根者何. 頌曰 「命根体即寿 能持煖及識」. 論曰, 命体即寿. 故対法言 「云何命根. 謂三界寿」. 此 復未了. 何法名寿. 謂有別法能持煖識説名為寿. 故世尊言 「寿煖及与識 三法捨身時 所捨身僵仆 如 木無思覚」. 故有別法, 能持煖識相続住因説名為寿(T29, 26a22-b2). 師茂樹 _ 仏教から見た人工生命⋅人工知能 •• 721 으로부터의 식의 연속(a continuum of consciousness)이 바탕이 된 몇 가지 유형의 태어나는 방식31)이 있다고 주장합니다. 식은 실제로 물질로 부터는 생겨나지 않지만, 식의 연속이 물질 안에 들어가는 경우는 있습니 다. ……만약 모든 외적 조건과 카르마에 기반한 행위가 갖추어질 경우, 식의 흐름(a stream of consciousness)이 실제로 컴퓨터에 들어갈 가능 성32)도 완전히 부정할 수 없습니다. …… 로쉬 : 그렇다면 임종의 시간을 맞은 위대한 요가행자가 이 세상에서 최고의 컴퓨터의 앞에 서서, 자신의 잠재적인 식(subtle consciousness) 을 컴퓨터에 발사하는 것도 불가능한 일이 아닐까요? 달라이 라마: 만약 컴퓨터의 물리적 기반이 식의 연속(a continuum of consciousness)의 기반으로서 작용할 가능성과 능력을 획득한다면 그렇 습니다만, 컴퓨터에 관한 이 문제는 그저 시간이 흘러가는 것으로 해결할 수밖에 없다고 생각합니다. 우리들은 그렇게 될 때까지 기다리고 있을 수 밖에 없습니다.33) 현재 주목되고 있는 신경회로망(neural network )등의 화제도 대담 중에서 취 급되긴 하지만, 1992년의 대담이기 때문에 AI를 둘러싼 상황은 현재와는 크게 다르다. 그러나 식을 지속시키는 얼개가 인정된다면, 컴퓨터가 ‘잠재저긴 식’의 전생(듭生)의 목적지가 될 가능성도 있다고 하는 달라이 라마의 견해는 AI와 생 명의 문제를 생각할 때 시사적이라 할 수 있을 것이다. 그러면 컴퓨터는 ‘식의 연속의 기반’이 될 수 있는 것인가? 혹은 컴퓨터 이외에 도 ‘식의 연속의 기반’이 될 수 있을 것 같은 인공물은 존재하는 것인가? 이 문제 를 고찰할 실마리로서 살아있는 인간의 신체를 시체와 바꾸는 불교설화가 있다는 것을 지적하고자 한다. 31) 전통적으로 불교에서는 태생ㆍ난생ㆍ습생ㆍ화생의 네 가지 태어나는 방식을 인정하고 있는데, 그것을 가리키는 것인지. 32) 유식사상에 있어서의 12지연기의 해석에서는, 12지연기설 중에 ‘식’이 수태할 때 자궁에 들어 가서 그 존재에 의해서 胎芽ㆍ胎兒를 성장시킨다고 설명되며, 그 ‘식’은 수명 혹은 생명력과 체온 과 함께 신체를 살리고, 죽을 때는 신체로부터 떨어져 나온다고 설명되는 식과 동일시되고 있다. Schmithausen(1987), § 1.3.4.1, Nakamura(2006) 등 참조. 33) Hayward and Varela (1992) 722 •• (사)한국불교학회 2017국제학술대회 옛날, 어떤 [여행]자가 있었다. 먼 곳에 가지 않으면 안 될 일이 있어, 혼 자서 빈집에 묵었다. 한밤중이 되어 한 도깨비가 시체를 지고 와서 앞에 놓 았다. 그 후 또 한 도깨비가 따라 와서, “이 시체는 내 것이었다. 너는 왜 지고 왔는가?”라고 먼저 온 도깨비에게 꾸짖자, 서로 한 손을 맞잡고서 언 쟁을 하게 되었다. 먼저 온 도깨비가 “여기에 사람이 있으니, 이 시체는 누 가 지고 온 것인지 물어 보자”라고 말했다. 이 [여행]자는 ‘이 두 도깨비는 힘이 강하니까 사실을 이야기하면 죽임을 당할 테고, 거짓을 말해도 죽임 을 당할 것이다. 어느 쪽이든 도망칠 수 없다면, 거짓말을 할 필요가 있을 까?’라고 생각하고, 먼저 온 도깨비가 지고 왔다고 이야기했다. 뒤에 온 도 깨비는 격노하여, [이 여행자의] 손을 뽑아서 땅 위에 놓았다. 앞에 온 도 깨비는 시체의 팔을 잡고 [여행자의 손이 뽑힌 자리를] 메웠다. 이런 식으 로 양발, 머리, 몸통이 전부 뽑혀서 시체로 메워져 갔다. 두 도깨비는 바뀌 고 만 [여행]자의 몸을 먹고, 입을 닦고 가버렸다. 이 [여행]자는 생각했 다. ‘우리 부모님이 낳아 준 내 몸은 눈앞에서 두 두깨비가 다 먹어 버렸다. 지금 나의 이 몸은 다른 사람의 육체다. 나에게는 몸이 있는 것인가, 없는 것인가? 만약 있다면 그것은 모두 다른 사람의 몸이다. 만약 없다고 하더 라도, 이렇게 몸이 있다.’ 이와 같이 생각하고 나자 마음에 혼란이 생겨, 미 친 사람처럼 되어 버렸다. 다음 날아침, 길을 물어서 앞의 나라에 도착하 자, 불탑과 승려들이 보였다. 다른 것을 물을 수가 없어서 단지 자신의 몸 이 있는 것인지 없는 것인지를 물을 수밖에 없었다. 비구들은 “당신은 누구 인가”라고 물었다. [여행자는] “내가 사람인지 아닌지 알 수 없습니다”라고 대답하고, 있었던 일을 승려들에게 자세히 이야기하였다. 비구들은 “이 사 람은 무아라는 것을 알고 있다. 깨닫지 쉬운 것이 아닌가?”라고 이야기했 다. 그리고 그에게 “당신의 몸은 본래 항상 무아인 것이고, 지금 만 그런 것 이 아닙니다. 다만 네 가지 원소가 모인 것을 자신의 몸이라고 생각하고 있 을 뿐입니다”라고 설명했다. [여행자는] 출가하여 모든 번뇌를 끊고 아라 한과를 얻었다. 이와 같이 무아의 헛됨을 알면 깨달음은 멀지 않은 것이 다.34) 34) 昔有一人, 受使遠行独宿空舎. 中夜有一鬼, 担死人来著其前. 後有一鬼逐来瞋罵前鬼「是死人是我 許, 汝何以担来」, 二鬼各捉一手諍之. 前鬼言「此有人可問, 是死人是誰担来」. 是人思惟「此二鬼力大, 若実語亦当死, 若妄語亦当死. 二倶不免, 何為妄語」, 語言前鬼担来. 後鬼大瞋捉手拔出著地, 前鬼取 死人一臂補之. 即著如是, 両脚頭脅皆被拔出, 以死人身安之如故. 於是二鬼共食所易人身, 拭口而去. 師茂樹 _ 仏教から見た人工生命⋅人工知能 •• 723 시체는 인공물은 아니지만, 위의 설화는 인공적으로 생성된 신체에 생명이 깃 든 것인지의 문제에 관한 불교의 시각을 시사하고 있는 것으로 보인다. 현재 ES 세포나 iPS세포의 연구가 진행되고 있고, 인공적으로 신체와 동등한 기관들을 만 들어 내서 손상되거나 사용할 수 없게 된 기관과 교환하는 것이 현실이 될 것 같 은 느낌을 점점 띄고 있따. 또 팔과 같은 복잡한 조직을 다른 신체로부터 독립하 여 인공적으로 만들어 내는 것도 성공을 향해가고 있다.35) 이것들도 또한 시체에 는 없으며, 순수한 인공물이라고 할 수 없는 면도 있지만 적어도 자신이 처음부 터 지니고 있던 신체 이외에도 ‘식의 연속의 기반’이 될 수 있는 ‘물리적 기반’이 있다는 점에서는 위의 설화와 공통적일 것이다. 그러면 시체와 같은 유기체가 아닌 컴퓨터상에 ‘식의 연속의 기반’이 될 수 있 는 ‘물리적 기반’을 구축하는 것이 가능할까?36) 발표자의 조사의 범위에서는 불 전 안에 ‘식의 연속의 기반’의 조건과 같은 것을 발견할 수 없었다(불전이 쓰였던 시대의 인공물과 현대의 인공물은 그 복잡함이 크게 다른 것을 생각하면, 불전에 근거를 발견하는 것은 의미가 없을지도 모른다). 그러나 인공지능의 개발모델 중 에서는 불교적 생명관과 공통하는 듯한 것도 제안되고 있는 것이 주목된다. 예를 들면, 컴퓨터 게임의 캐릭터의 AI를 연구하는 미야케 요이치로(三宅陽一 郎)는 Agent Architecture에 기초하여 개개의 인공지능(캐릭터, 에이전트)가 ‘신 체’를 지니고, 개개의 ‘신체’에 응한 ‘환경계’를 지니는 모델을 제안하고 있다. 이 모델에서 개개의 캐릭터는, 其人思惟, 「我父母生我身, 眼見二鬼食尽. 今我此身尽是他身肉. 我今定有身耶, 為無身耶. 若以有者 尽是他身. 若無者今現身如是」. 思惟已其心迷悶, 譬如狂人. 明旦尋路而去到前国者, 見有仏塔衆僧. 不可問余事, 但問己身為有為無. 난比丘問「汝是何人」. (言「亦不自知是人非人」, 即為衆僧広説上 事. 난比丘言「此人自知無我, 易可得度」. 而語之言「汝身従本已来恒自無我, 非適今也. 但此四大合 故計為我身」. 即度為道, 断난煩悩即得羅漢道. 是為能計無我虚得道不遠 (道略集・鳩摩羅什訳 ?衆 経撰雑譬喩? T4, 531c25-532a17). 이 설화는 ?대지도론? 등에도 인용되어 있고, 널리 알려져 있는 것으로 보인다. 35) 예를 들면, Gorvett(2016) 등. 36) 애초에 “생물은 탄소로 이루어진 거이라는 사고방식은 꽤나 시대착오가 되고 있다”(keim 2007)라고 한다면 유기체인지 무기체인지를 묻는 질문을 세우는 것 자체가 틀렸을 가능성이 있 다. 724 •• (사)한국불교학회 2017국제학술대회 1. 신체ㆍ물리층 2. 지각ㆍ자극층 3. 상징ㆍ기호층 이라는 오온(五蘊)과 비슷한 계층구조를 지니고 ‘환세계’(環世界)37)를 인식하 고, 또 그것에 대해서 반응을 한다고 한다.38) 이 모델의 배경에 있는 것은 Uexküll의 생태학, Husserl의 현상학, Saussure의 언어이론, affordance 이론 등 인데, 환세계를 각각으 ㅣ신체적 조건 등에 의존하여 분절하여 이해하는 ‘무의식’ 의 영역에 관해서는 이즈츠 토시히코(井筒俊彦)39)나 유식의 알라야식설 등40)도 참조되고 있다. 물론 사상적ㆍ구조적 유사성을 지닌다고 해서 그것을 곧이곧대로 유정이라고 간주할 수는 없으며, 현재의 AI와 그 ‘환세계’는 실제의 유정과 그 환경을 비교하 면 극히 단순한 모델에 기초한 것이라는 점을 고려하면, 유사성이 있다고 하기도 어려울 지도 모른다(다만 인간과 비교하면 매우 단순한 원생생물 등도 유정이라 고 한다면, 단순/복잡이라는 기준만으로 비정/유정을 판단하기가 어려울 지도 모 르겠다). 그러나 최근에 성공하고 있는 Deep learning이 뇌의 시냅스의 존재방식 (neural network)을 모델로 하여 제작된 것처럼, 일부의 AI와 로봇은 실제의 생 명체를 모방하여 설계되고 있는 것도 많다. 그것이 장래에 실제의 생명체에 가까 워졌을 때에 그것을 생명이 아니라고 판단하기에는 보다 많은 논의가 필요한 것 이 아닌가 생각된다. ‘신체’의 필요성과 불교적 세계관 그런데 앞에서 소개했던 살아있는 몸과 시체를 바꾸는 이야기에 관련하는 논 37) Uxküll(1934), “생물은 각 종마다 기본적 욕구와 감각기관의 형태학적 구조의 특수성, 이 두 가지에 조건지어지면서 환경 안에 놓여져 있다”(Miyake 2017b, § 24)라고 하는 Uxküll의 ‘환세 계’라는 사고방식은 유식 등에서 말하는 ‘一見四水’ 등과 통하는 것으로 생각된다. 38) Miyake(2014). 39) Miyake(2017b), § 24-25. 40) Miyake(2017a). 師茂樹 _ 仏教から見た人工生命⋅人工知能 •• 725 의로서, 고도화된 의료기술과 생명과학을 전제로 한 인체에 관한 사고실험이 있 다. Derek Parfit(1984)는 뇌의 세포를 조금씩 다른 뇌로 옮겨놓을 경우, 혹은 뇌 를 반으로 분할할 경우(뇌는 어떤 사고로 반 정도를 잃게 되더라도 어느 정도 기 능을 유지할 수 있기 때문에, 이론상으로는 반으로 나누어도 각각을 살리는 것이 가능하다고 생각되고 있다)에 있어서 인격의 문제에 관해서, 사고실험을 실행하 고 있다. Prfait가 같은 책에서 초기불전을 인용하고 있는 것을 보면 알 수 있듯 이, 이런 사고실험은 초기불교의 무아설과 친화성이 높다. 또 인간 뇌의 정보를 단계적으로 컴퓨터로 옮기고, 최종적으로는 뇌의 정보를 완전히 컴퓨터로 복사해 버리는 업로딩 문제와도 관련이 있다.41) 이와 같은 뇌를 중시하는 사고방식에 대해서 Bernard Faure(2017)은 Francisco J. Verela의 enactivism과 Bruno Latour의 네트워크와 대치시키면서, 인간의 정신적 작용을 뇌에 있어서의 일종의 계산으로서 설명하고자 하는 신경과 학 등의 사고방식을 비물질화(dematerializing)이라고 부르며 비판한다. 사이버네틱스부터 계승된 ‘고전적인’ 모델(마음의 계산이론)가 현재에도 하드사이언스(신경과학)에서 지배적인 한편, 그 이외의 다양한 모델이 이 론적인 논의의 중심이 되고 있다. 약칭을 좋아하는 사람들이 4E(enactive 행동화ㆍembodied 신체화ㆍembedded 내장된ㆍextended 확장된)이라고 하는 정형구로 이들 새로운 이론을 포괄하고 있다. 이 이론들은 인식(혹은 마음, 의식 등)이 뇌단체에 한정되지 않고 대상과 사람들, 조직 등과 함께 존재한다고 하는 사고방식을 공유하고 있다. 이것은 Bruno Latour가 말하 는 ‘네트워크’에 가깝다. Latour의 네트워크에서 뇌는 단순한 허브-일반적 으로 그렇게 생각되는 것처럼 중요하긴 하지만, 아마도 중심은 아닌-에 지 나지 않는다고 간주된다.42) 또 Faure는 Philippe Descola의 ‘네 가지 존재론’(les quatre ontologies: 41) 일반적으로 Singularity 등이라고 불리는 인간의 지성을 초월하는 인공지능이 등장할 경우에 인간이 어떻게 대응해야 할지의 질문에 대해서 인간도 또한 뇌를 업로드 해버려서 종래의 지성 을 초월하는 지성을 손에 넣으면 되지 않을까 하는 제안도 이루어지고 있다(Chalmers 2010). 42) Faure(2017). 726 •• (사)한국불교학회 2017국제학술대회 totémisme, animisme, analogisme, naturalisme)을 참조하면서 불교를 신경과학 으로 대표되는 naturalisme에 해당되는 듯이 왜소화시키려는 불교 모더니스트 (불교의 전근대적, 비과학적 부분을 배제하려고 하는 사람들)을 비판한다. Faure의 비판에서 경청해야할 부분이 많지만, Faure 스스로가 강하게 옹호하 는 불교적 세계관(Buddhist Cosmology)를 전제로 할 경우에 비물질화의 문제와 신체의 문제는 보다 신중하게 검토할 필요가 있는 것으로 보인다. 앞에서 서술했 던 것처럼, 불교에서는 옛날부터 삼계(욕계ㆍ색계ㆍ무색계)를 설하고, 무색계에 서의 물질적인 신체와 환경이 없는 생명의 존재방식을 인정한다.43) 또한 불교에 서는 종종 감각기관(6근)의 집합이 신체를 대표하는 것으로 표현되는 것처럼, 외 계로부터의 끊임없는 자극에 대한 반응의 연속체ㆍ집합체로서, 바꿔 말하면 외계 에 ‘확장된’(extended) 존재로서 생명체를 파악한다. 부정관 등을 통해서 골격과 근육, 내장과 뇌와 같은 물질적 신체를 구성하는 기관들에 관한 지식도 지니고 있었음에도 불구하고, 불교문헌에서 그것들은 후경화(後景化)되고 있는 것이다 (Moro 2012). 물론 (불교가 본질적으로 그렇듯이) 인간중심주의적으로 생각하 면 물질적 신체와 환경의 존재는 중요하다. 그러나 불교적 세계관에서는 물질성 의 중시/경시와 신체성과 환경의 중시/경시가 반드시 일치하지 않는다. 생명을 유 지하는 ‘식’(食)에 비물질적인 ‘식식’(識食) 등이 있는 것을 통해서도 알 수 있듯 이 식을 유지하기 위해서 물질의 존재가 반드시 필요한 것은 아니다. 또한 Faure가 비판하는 불교의 자연화(naturalizing), 즉 불교적인 인식론과 명 상체험을 물리학으로 대표되는 자연법칙으로서 이해하고자 하는 사고방식은 현 재 마음의 철학의 필수적인 전제는 아니다. Time Crane(2003)은 아리스토텔레 스에 기반한 중세ㆍ르네상스의 ‘생물적’ 세계상(무생물도 생물과 마찬가지로 목 적과 자연적 본성을 지니고 있다는 사유방식)과 그 후의 ‘기계론적’ 세계상(세계 의 모든 것을 물질의 규칙성으로 설명하고자 하는 사유방식)을 살펴본 후에, 현 재 마음의 철학을 그것들과 구별하여 마음이 어떤 식으로 원인과 결과로 이루어 진 세계의 일부가 되고 있는지를 논증하는 연구영역으로서 정의한다. 불교야말로 세계 안에 존재하는 비물질적인 부분을 중시하고(그 극단적인 예가 유식사상일 43) 問, 如是四生以何爲自性. (, 四蘊五蘊以爲自性. 謂欲色界五蘊, 無色界四蘊(?阿毘達磨大毘婆沙 論?T1545, 27, 626c4-6). 師茂樹 _ 仏教から見た人工生命⋅人工知能 •• 727 것이다), 식을 비롯한 비물질적 존재의 법칙성을 설명하는 것에 주력해 온 것이 아닐까? Faure가 말하는 것처럼, 불교와 다른 철학적 전통을 비교할 때 양자에 공통하는 부분만을 취하여 일치하지 않는 부분에 관해서는 과소평가하는 것은 피 해야 하지만, 현재 마음의 철학과 정보학의 성과를 naturalisme로 일괄하는 것에 대해서는 신중해야 할 것이다. 컴퓨터의 메모리 공간상에 업로드된 뇌 안의 전자데이터가 유정인지 아닌지를 판단할 때에는 그것이 물질인지 물질이 아닌지를 묻는 관점과 물리적인 신체ㆍ환 경을 지니고 있는지 지니고 있지 않은지를 묻는 관점이 아니라, 식과 동일한 법 칙성에 의해서 동작하고 있는지 아닌지를 묻는 관점에서 논의되어야 하지 않을까 생각한다. 유식을 통해서 말하자면, 식이라는 것의 최저조건 5편행(遍行: 觸ㆍ作 意ㆍ受ㆍ想ㆍ思)이 작용하고 있는 것이라고 점을 고려하면, 컴퓨터상에서 그것 을 실현하는 것은 그만큼 어려운 것으로 생각된다. 마치며 이상으로 꽤나 잡다한 가운데 인공지능을 유정으로 간주하는 것이 가능한지, 윤회전생의 행선지로서 생각할 수 있는지에 대한 문제에 관해서 불교의 전통적 논의를 참조하면서 검토해 보았다. 명확한 해답이 가능할 리는 없는 부끄러운 생 각이지만, 발표자의 솔직한 감상은 이 문제에 관해서는 일체지자(一切智者)인 붓 다로부터 답을 듣고 싶다는 것이 정직한 기분이다(유감스럽게도 금생에서는 그 것이 이루어지지 않겠지만).44) 하지만 불교적 입장에서 보았을 때 뇌사(腦死)는 죽음인지에 관한 논의가 있었던 것처럼, 언젠가 인공지능과 머지않아 찾아올 인 공지능과 로봇 등과 공생하는 사회에서 그런 생명처럼 행동하는 인공물에 대해서 불교인으로서 어떻게 접해야 하는지에 대한 논의도 또한 불가피할 지도 모른다. 만약 그런 시기가 올 때, 이 발표가 그런 논의의 디딤대가 될 수 있다면 다행일 것 이다. 그렇지만 완전히 시론에 지나지 않는 것이기 때문에, 제현의 질정을 청한다. 44) 애초에 생명체처럼 보이는 것에 식이 있는지 아닌지(생명체처럼 보이는 것이 정말로 살아 있 는 것인지)를 외부로부터 판단하는 것이 곤란하다는 문제가 있다(Moro forthcoming 참조). 이 문제는 마음의 철학에서의 소위 ‘철학적 좀비 문제’와도 관련있는 것으로 여겨진다.

 

[출처] 모로 시게키 하나조노 대학 교수/불교에서 본 인공생명⋅인공지능 /번역 : 강형철|작성자 임기영불교연구소